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よなばるの魅力

与那原町ってどんなまち?

「太陽と緑、伝統とやさしさを未来へつなぐ海辺のまち・与那原町」がテーマの与那原町。
与那原町は沖縄本島の東海岸南部に位置し、県都那覇市から9㎞の地点にあり、東南に南城市、西に南風原町、北に西原町と3市町村に隣接しています。
琉球王朝時代から本島南部に伝わる、国家の繁栄と五穀豊穣を祈願する祭祀として行なわれていた行事「東御廻り(あがりうまーい)」の拝所である「御殿山(うどぅんやま)」や「親川(うえーがー)」は与那原町にあり、 毎年訪れる人も多いです。
この他にも、町のあちこちに史跡があるのは与那原町ならではです!観光で訪れた際にはゆっくり散策してみましょう。

沖縄本島の中で一番小さい町ですが、那覇・糸満と並ぶ沖縄県三大綱曳のひとつ「与那原大綱曳」は一度訪れる価値ありです!
当日参加も可能なので、沖縄で一番華やかで力強いといわれる綱を引いてみましょう。町内には「綱曳資料館」もあるので、「与那原大綱曳」に興味がある人は一度足を運んでみてください。

与那原町の歴史

与那原町の歴史は古く、沖縄最古の古謡集といわれる「おもろさうし」にも、「ヨナハル」や「ヨナハバマ(与那原浜)」の名で登場します。

聞得大君(きこえおおきみ)ゆかりの地

昔の沖縄、琉球王国には琉球神道という宗教が信仰されていました。
琉球神道ではノロという神女の役職があり、その最高位を「聞得大君(きこえおおぎみ)」といいます。
聞得大君は国王を霊的に守護する役を担っており、 国王や国そのものに降りかかる災いを、その霊的力をもって退けていたと伝えられています。その聞得大君ゆかりの地として、与那原町には数多くの史跡が残されています。

与那原の地名と集落のはじまり

与那原の地名は、かつて海岸地であったところの名称であるといわれ先史時代の面影は、きわめて静かで白い砂浜が続く入り江を前にした浦辺の仙境であったと思われており、古代の与那原人が最初に住み着いたところは、上与那原であったといわれています。
当時の上与那原は、海に近く漁労に便利でしかも水が豊富だったため、自然に人が住み着き、集落ができたと考えられています。

近代化と軽便鉄道の開通

明治12年(1879年)に廃藩置県が施行されたが、与那原はそのまま大里間切の一つに組み入れられ、明治41年の市町村制により大里村の一字となりました。
大正3年(1914年)には、那覇-与那原間に沖縄県で初めての軽便鉄道が開通したため、与那原は島尻郡東南部や中頭地方を連結する産業経済の大動脈となり、ますます活況を呈します。

分町問題は昭和3年頃から持ち上がり、昭和19年町制実現を目前にして戦争のため中断されたが、戦後再び分町の気運が高まり昭和24年3月31日大里村より分離し、同年4月1日町制を施行して、20年ぶりに与那原町が誕生します。敗戦後から昭和47年5月15日の祖国復帰までの27年間沖縄の施政権は米国政府の支配下におかれたが、与那原人自らのエネルギーで徐々に復興の道を歩み続け、今日の与那原町を造りあげています。

沖縄では1914年(大正3年)12月、 那覇・与那原間が開通したが、本土で走る通常の汽車より一回り小さい鉄道「沖縄県営鉄道・軽便鉄道」という汽車が走っていました。路線は那覇駅~与那原駅までの与那原線、那覇駅~嘉手納駅までの嘉手納線、那覇駅~糸満駅までの糸満線の3路線で運行していました。
この 軽便鉄道の導入によって大量の人と物資の輸送が可能になり、町の発展に大いに貢献しました。
しかし沖縄戦で米軍の攻撃により設備が破壊され、嘉手納線は1945年3月23日頃、与那原・糸満線は3月28日頃が最後の運行になり姿を消しました。

現在は、軽便与那原駅舎歴史資料館として、再現されています。

与那原の歴史・文化をもっと知る

琉球を創世したとされるアマミキヨにまつわる14の聖地巡礼

東御廻り(あがりうまーい)と与那原町

南部の聖地巡礼「東御廻り(あがりうまーい)」とは、 琉球王朝時代から本島南部に伝わる、国家の繁栄と五穀豊穣を祈願する祭祀として行なわれていた行事です。琉球を創世したとされるアマミキヨにまつわる14の聖地を巡るというものです。

450年余の歴史を誇る大綱曳

与那原大綱曳

与那原大綱曳の始まりは、1500年代の尚永王時代までさかのぼるといわれており、現在まで450年余の歴史を誇っています。与那原を象徴する伝統文化として知られており、今では多くの綱曳ファンを魅了しています。

かつて沖縄を走っていた軽便鉄道(けいべんてつどう)

軽便鉄道与那原線(駅)

戦前の沖縄には、「軽便-ケービン-」と呼ばれた、 ひと回り小さな、しかし立派な『沖縄県鉄道』が走っていました。路線は与那原線、 嘉手納線、糸満線の3路線で運行していました。